青崩峠と武田信玄

 青崩峠は標高千八十二メートル、その名のようにあらあらしい峠です。

この峠を越えると、静岡県にはいります。

昔は遠州の秋葉神社におまいりする人や、物資をはこぶ馬追いしゅうで

にぎわい、峠の付近には茶店や、馬宿などもあったそうです。

 また古い歴史をひもとくと、戦国の時代に武田信玄も自ら軍勢をひきいて、

この峠を越えて三河に駒を進めています。

 元亀(げんき三年といいますから、いまから四百十四年も前のことです。

この武田信玄の青崩峠を越したようすが、いまはなくなりましたが、作家の新田次郎

という人が、小説に書いております。

 小説ですからたぶんに、作者のつくりごともあるかも知れませんが、たいへんおも

しろいので、
少し紹介してみましょう。

 信玄のひきいる部隊は、えんえんと続いた。

飯田から伊那に出て、飯田からまっすぐに南下した。

 この道は信濃から遠江(とうとうみ)に出る古くからの道であったが、途中三千尺

(約一,000メートル)の高さを持つ青崩峠を越えなければならなかった。

 山を越えても二俣(ふたまた)までの十五里(約五九キロ)はずっと山道であった。

荷駄隊をつれての大部隊の山越えは、困難であった。

 それに、徳川軍が山の中にかくれていて、信玄の旗本を目がけておそいかかることも

充分かんがえられる。

 あんない役は遠江、犬居いぬいの城主、天野景連(あまのかげつら)であった。

かねてから、信玄の勢力にぞくして忠誠を約していた北遠の豪族で信濃まで迎えにきた。

 物見が八方に出され、二重、三重に警かいが行われた。

 徳川軍が待ちぶせていたり乱破(らんぱ 敵のようすをさぐる役)がはいり込んだようすもない。

 だが信玄は用心深かった。

青崩峠にさしかかる前に、荷駄隊を全軍にわりあてて行動した。

先手(さきて)しゅうはいく手にもわかれ、それぞれ景連がつれてきた案内人を先に立てて、

いざというときは、てっぽうをうって危急を知らせることになっていた。

 物見の口から徳川方の間者かんじゃ まわし者がこの付近に二十人ほどいることと、

徳川軍がいないことがわかった。

 峠近くなると道巾はせまくなり、馬一頭がやっと通れるほどの山道になった。

 信玄は馬上ゆたかに峠に向かって進んでいた。

周囲が厳重にかためられていた。かぶともちはすぐうしろにいた。

信玄は目だたないように陣笠をかぶっていた。

 信玄から七人目に、長いひげをはやした老将が馬にゆられていた。

この老将こそ信玄の変そうしたかげ法師であった。

これを知っている者は、ごく側近のものばかりであった。

 信玄は青崩峠を越え、小川にそって下ると、小さな部落があった。

人家のなかは敵がかくれていないか、先てしゅうによって調べられた。

人かげがないところをみると、住民はおそれて、山のなかへにげこんだものと思われた。

 ところで、武田軍の軍勢ですが、新田次郎によると、信玄の本隊はその数、二万二千人

とされております。

こんな大軍が遠山谷を通ったわけですから、当時の人たちは、さぞかしびっくりしたこと

でしょう。

 そのころ遠山の殿さまは、遠江守景広(とうとうみのかみかげひろ)でしたが、すでに武田に

ぞくしていたとされますので、武田軍のため
力をかしたことはまちがいないと思います。

 
雨乞いとからねこさま